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死と宗教
2005年 02月 03日 |
飼っている猫2匹のうち、前から病気を持っていた一匹が、今朝冷たくなっていた。
ああ、そろそろじゃないかと思っていたけれど、やっぱり…。
冷たく固い猫の身体を抱き上げ、タオルを敷いた箱に移しながら、私は毛並みが妙に固くも、生前と同じにも感じるのを、ぼんやり意識していた。
様子の変わった猫の顔を直視するのが、最初、少し怖かったが、見てしまえば、埋める前に顔も身体も綺麗に拭いてやろうと思っただけだった。



思い返すと、ペットだけではなく、親戚や知人、既に幾人も私は亡くしている。
そして、今日と同じように、私は何時の時も泣きもせず、狼狽えもせず、淡々とすべきことを考え、一日の予定を修正している。
どこかで泣き出しそうな感覚はあるが、別にこらえている訳でもないのに涙は出ない。
行動も発言にも、大きな動揺は出ず、おそらく周囲から見れば、普段と何一つ変わらないと思う。

きっと私は死というものと向き合う事を避けている。
ずっとそう感じてはいたが、それ以上つきつめはしなかった。

死は、私にとって必然ではなく例外だった。
だが、数えてみれば、もう例外というには、知っている死者の数が増え、今日死んだ猫のように年齢からすれば不思議のない死が増え、早すぎる、例外だと言える死の方が減ってきた。
これまで例外だと考えていた死者の思い出は、整理されないまま沈殿し、そろそろ真剣に向き合わないと、いずれ溢れかえるようでもある。

死者に対して私が感じるのは、やはり罪悪感という言葉が一番近いように思う。
最初は、お世辞にも出来るだけのことはしたと言えない自分の行動のせいかと思っていた。
もっと色々してあげられたのじゃないか。
これはよく言われることだし、自分もそうだと。
だが、これまでのことを考えてみると、そうでもないようだ。
確かに私は死にゆく者に対して冷淡、というか日常に紛れて、十分なことをしてこなかったと思う。
けれども、彼らが生きていた時の楽しい思い出ではなく、見送った時の思い出ばかりが残り、何かし残しているような気分でいるのが、自分と死者の関係や生前の自分の行動とリンクしていないことに気付いた。

私は、彼らが寂しいだろうと感じている。
そして、寂しい彼らの傍にいてやれないこと、あるいは、この生者の輪の中に呼んであげられないことに罪悪感を感じている。
生前、何もしなかったことに対してではなく。
過去ではなく現在に対しての罪悪感だ。
家族に囲まれて逝ったかどうか、あるいは先に親しい相手が亡くなっていて、死後の世界があるならば、そちらで巡り会っているだろうとか、一切関係ない。
私にとって、死は唯一人迎えるものであり、そしてずっと独りでいることだ。

もちろん、どうしようもないこともわかっているし、第一、死者が寂しいだろうと感じるのも、つまりは私が死をそうとらえているだけであって、実際のところはわからない、要するに自分の死への恐怖を投影しているだけだというのもわかる。
だが、そう感じることは消せない。

その中で、一人、去年亡くなった祖母についてだけ、私は罪悪感を感じないことに気付いた。

その祖母に対して、それこそ私は何もしなかった。
長らく会いにもいってなかったし、死に目にもあっていない。
何かしてあげられたという思い出は、ただの一つもない。
祖母は、事情で施設に入っており、そういう意味では寂しい死だったと言えなくもない。
にもかかわらず、整理していない、し残していることがある、大事なことを済ませていない、そういう感覚も、罪悪感も、私は祖母に対して一切感じていない。
何故だろうか?

祖母の葬儀を思い出した。
祖母はクリスチャンであった。施設もキリスト教系の施設だったため、施設内に礼拝所があり、死が近くなってからもベッドサイドに神父様が来て下さっていたようだ。
そして、葬儀の席、神父様や施設の方のお話によれば、祖母は死が近付いていることを淡々と受けとめ、神に祈り、神の御許にいけることを感謝して亡くなったという。

だからだ。
私は、祖母は一人ではないと感じている。
家族に十分な世話をされ、看取られた死者達には、それでも孤独だろうという感覚が消えないのに、そして、私は信仰を持たないのに、それでも、祖母は神を信じており、神の傍にいくと思って死んだということを理由に、少なくとも祖母の傍には神がいて下さるのだと感じている。
だから、祖母は寂しくはないだろうと。だから祖母の死は祝福してよいのだと。

勿論、自分がいつか死ぬ時に、それを理由に自分も神の傍にとはとても考えられないだろうし、信仰を持つとも考えにくい。
第一、私にとっては、自分がどうかではなく、死者がどうであるかが問題らしいから、むしろ信仰を持つ知り合いの方が少ない以上、今後も私は死者は寂しいと感じ続けるだろう。
だが、少なくとも、祖母のお陰で、私は死者は寂しいと考える自分の思考が罪悪感のもとであり、そして、私がどう感じるかはきっと死者にとっては何の意味もないのだろうということも、なんとなくではあるが実感された。
これまでの感覚の伴わない頭での理解ではなく。
だから、もう沈殿させなくていいのだと、直ぐには無理だろうが、少しずつ整理も付けていけるのだろうという気がする。

今日死んだ猫は、仔猫の時にもらってきて、典型的内弁慶な性格で、可愛らしい猫だった。
構われるのが嫌いな癖に、誰の姿も見えないと寂しいのだろう、いつの間にか少し離れた場所で丸くなっているような子だった。
看取ってやれなかったけれど、今は安らかだといい。
おやすみ。
ずっと病気で苦しかっただろうけど、もう楽になっただろう。
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by catsmoon | 2005-02-03 10:48 | 雑感
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