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他責、自責、無責
2005年 02月 18日 |
先に書いたキャッチボール訴訟のニュースは、以前から考えていたことを、また私に考えさせた。

何事か不快な出来事が起こった時、その責任を誰に帰するか、という問題である。
これには、三つのパターンがある。
他責: 他人のせいにする。人でなくとも、つまり自分以外の何かが悪いと考える事。
自責: 自分が悪いと考える。自分のせいであると自分を責める。
無責: 誰のせいでもない、強いて言えば、運が悪かったのだという考え。



これらは、どれが優れている、劣っているという事ではない。

どの考え方をしやすいかという傾向に個人差はあれど、どれか一つ、あるいは二つしかしないという人はいない。
ケースによって、それらを人は使い分ける。
場合によっては、自責と他責が同時にあったりもする。
これらを状況に応じて、適切に使い分ける事ができるというのは、大人の大事な条件だ。

明らかに自分が悪かったならば、当然自責でなくてはならない。
しかし、明らかに他者のせいであるのに、自分を責めるのは自己卑下だ。
また自分が悪いとしても、あまりに自責が強すぎても、それはそれで困るので(極端な例で言えば、うっかりコップを落として割った時に、ごめんなさいが言えないのは問題だが、といってそれで申し訳ないから死んで詫びるとまで思い詰めるのは行きすぎだ) 要するに、何事も程度問題、上手に使う必要がある。

しかるに、訴訟などを見ていて、自責でなければ即他責という発想の人が増えていないか?と感じる事がある。

それは、世の中の森羅万象全て人間がコントロール可能なはずだという傲慢さに基づくと思う。

例えば、仮に子供がため池に落ちて死んだとする。
すると両親は、池の周りにバリケードを築き、看板を立てまくり、見張りもつけておくくらいしなかった国や自治体が悪いと訴える。

もしも、普通に道を歩いていたのに、ちょっと滑って転んだだけで転がり落ちかねないような池を放置していたなら、国や自治体の責任も問えるだろう(これが他責)
だが、例えば、柵があったとして、柵を越えて遊んではいけないと言われていたにも関わらず、子供が乗り越えて落ちたなら、それはその子の責任だ(これが自責)
また親や周囲が気をつけていても、時に思いもしないことをやらかしてくれるのが子供というものだ。子供を完全に事故から守り通すというのは、人間の力だけでは不可能で、何処かで運を頼るしかない(これが無責)

世の中にはどうにも避けようのない不運というものがある。
上記の例で言えば、普通に気をつけていても落ちかねない危険な池なら、私も自治体を訴えるかもしれない。
しかし、柵があったのなら、半分は乗り越えるなと厳命しておかなかった自分(親)の責任と考えるだろうし、残る半分は、それでも乗り越えかねないのが子供というもので、丸一日子供を見張っておくことが不可能な以上、感情として納得はしかねるが、それでもやはり不運だったのだと考えるだろう。

怒りのぶつけ先がないというのは辛いものだ。
だが、八つ当たりしても救われる訳ではない。
(これは、不愉快な事があって、誰かに八つ当たりしたことのある人なら誰でもわかるだろう。実に後味の悪いもので、すっきりなど絶対にしない)
不運な出来事は起こりうるもので、これは人知では如何ともし難い。
癒してくれるのは、八つ当たりめいた訴訟ではなく、ただ時間だけだ。

それなのに、人の手の及ばない現実があることを認めず、誰かが、何かが悪いのだ、責任があるのだと考えるのはどうか。
もう少し我々は世界に対して謙虚になる必要がありはしないか。

遣り場のない怒りを何処かにぶつけずにいられなくて、誰かを責めてしまう心を私は否定はしない。
しかし、それが不運であって、避ける事は人間の力だけでは難しいと気付いたならば、振り上げた拳を下ろす潔さを持ちたい。
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by catsmoon | 2005-02-18 23:35 | 雑感
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