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親離れ子離れ
2005年 03月 06日 |
『サーティーン』を観ると『エクソシスト』がよくわかる。 by 町山智浩アメリカ日記

私は、エクソシストは観たし、積み木崩しは原作を読んだ事があるが、サーティーンという映画は知らなかった。
だが、この記事は実に説得力があった。



世の中には、時折、思春期の親離れでつまづいた子供、あるいは子離れ…いや、子を離してやることにつまづいた親がいる。

それらの親に共通して見られる特徴の一つが意識化されない恐怖だ。
この映画評は、その親の恐怖を的確に暴いて見せたと思う。
映画の中では、子供は荒れ狂っているようだが、現実にはそうとばかりは限らない。
それでも、親は子供が大人になる事に恐怖を感じている。

何故だろうか?
理由は色々なのだと思うが、それまで大人しく可愛く素直だった我が子が、一人の大人として、いわば言いなりにならなくなること、そして、子供というのは、得てして親の希望通りの大人になどなってくれないから、その希望と現実のギャップの受け入れ、さらには、一人の大人としての自立した判断力と批判力を持った子供の目に、信じ頼るべき親としてではなく、一個の人間として評価に晒されること。
このあたりが理由ではないかと思う。
更に付け加えるならば、親が親であること(多くは母親だ)を自分自身の重要な要素であり、存在意義であると感じている場合、子供が子供でなくなって大人になることは、即ち自分が親の役割を果たし終えたことを意味し、自分の価値を減ずることに繋がる。
そのことへの恐怖もあろうか。

逆に子供の側には葛藤が存在する。
親に守られた幸せな子供でいたいという欲求と、一人の大人になって自分の世界を広げに出て行きたいという欲求。
一人で生きて行くことへの不安と、親にいつまでも支配されることへの不満。
この二つの欲求や不安の綱引きが思春期であり、やがて欲求にしろ不安にしろ、後者が強くなって子供は出て行く。

多くの親子は、そういった思春期の葛藤を乗り越えて、どうにかこうにか新しい親子の関係を作り上げていく。
子供が大人になっても、親子のありようが変わるだけで、親子の関係が消え去る訳ではないこともそうやって理解していく。

しかし、これらの映画のように、時にこの恐怖に耐えかねて恐慌をきたし、親離れ子離れを非常にこじらせるケースが存在する。

そこに私は、一つの幻想の罪を見る。
どのような幻想か?
それは、世に流布する「独立した大人同士として尊重しあえる親子関係にスムーズに移行することが望ましい親離れの形」であるというものであり、むしろ、それが普通であって、そこで子供が荒れちゃったというのは、子育ての失敗なのだという幻想である。

ところがこれは幻想に過ぎない。
自分自身を振り返ってみればわかる。
親離れの時期に、親に暴言の一つも吐いた事がないか、好ましくないとされる行動の一つもとったことがないか、速やかに親を限界もある一人の人間として認識できたか、親は自分を一人の独立した個人だと直ぐに認めてくれたか。
私の場合は、全てNoである。
実際、ろくなことしなかった(笑)
私が親なら殴っているw

現実の親離れの典型を考えるには、人間よりもむしろ動物を考えた方がわかりやすい。
野生動物の生態を描いたテレビ番組などによく出てくる。
子供が巣立ちの時期を迎えると、親が突然子供を攻撃して叩き出す、突然親が姿を消す、後は子供が生き延びていけるかどうかなど、子供の問題であって、親の知ったことじゃないとばかり。
あるいは、逆に子供が親を蹴り飛ばすようにして、巣立っていくパターンも見られる。

こちらが普通なのである。
何故なら、親に養われる巣の中は居心地がいい。
餌も与えてもらえる、守ってももらえる。誰が好きこのんでそこから出て行こうと思うだろう?
だから、巣立ちは無理矢理に蹴り出さなくてはいけない、飛び出さなくてはいけないのだ。

親はそうやって子供を蹴り出す。
子供は何故親を蹴り飛ばして出て行くのか?

それは、快適な生存の欲求を上回って、繁殖の欲求が高まるからだ。
親の傍にいる限り、子供は自分が伴侶を見付けて、厳しい繁殖闘争を乗り越え、子を成し、守り育てる気にはなれない。
相手も見つからない。
だから、思春期、つまり性的に成熟する時期に、子供は相手を探すために親を捨てて出ていくのだ。

しかし、これらの映画のように、そこでつまづく場合、この幻想に強く捕らわれた親子は、自分が抱える潜在的恐怖に気付かぬまま、何とかして親子関係を元に戻そうとする。
親は子供を可愛く素直な子供に戻して、穏やかで順調な自立という幻想をやり直そうとする。
子供は、親に可愛がり守ってもらって、大人になることへの不安から救われたいと考える。
この勢いを利用して子供を叩き出そう、親を蹴り飛ばして出て行こうとはしないのである。

そこに問題がこじれる理由がある。

この映画評では、救い手として父親的役割を果たす人間の存在についても述べられている。
それは、父親的役割とは、子供を切り離すものだからだ。
母親的役割は子供を抱え込み、守るものだ。そこから、子供は愛情と信頼を学ぶ。
(ここで躓いている場合、外の世界に出て行く不安は大きくなり、自立を妨げる要因になる。虐待のようにあまりにも母親的役割が欠けている場合は、そこからやり直しが必要なこともあるが、そのようなケースは思春期よりも前から問題が表面化することが多い)
父親的役割は、子供に善と悪の区別を教え、公私を教えて、物事を切り離す教育をする。
母は己の女であるから、お前は他で探せと言って、母と子を切り離す。
そこから、子供は社会で生き延びていく力を学ぶ。

サーティーンという映画では、父性的役割を果たす人物は出て来ないようだが、子供は、それらがなくとも、言わば社会と、その中での関わりを通して、大人になること、主体と客体を切り離して整理することを学び、思春期を越えていくようだ。

要するに、親離れ、子離れにつまづいた時に目指すべきは、元に戻る事ではなく、いかに速やかに子供を社会に放り出すかなのである。
後は自力で生きていけ。
この一言を子に告げることは、親にとって非常に辛い事だが、子育てにおいては大事な最後の総仕上げなのである。
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by catsmoon | 2005-03-06 16:28 | 雑感
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