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物語り
2005年 07月 03日 |
最近、子供が子供を殺傷する事件が相次いでいるような気がします。
それぞれに事情があり、単に子供同士ということだけで一括りにしてしまうことはできないのでしょうが、なんとなく後先考えない子が増えているのかなという印象を受けます。
これは子供だけじゃなく、大人にも言えることかもしれませんが。



追いつめられて、視野がとてつもなく狭くなることというのは、誰でもあると思います。
私も得意技です_| ̄|○

それでも、感情的に破壊的な行動を取る前に、やはり立ち止まって考えます。
感情にまかせた行動をしているように見えても、実のところは、今は多少感情的になっても、なんとかなる、そう後始末が大変にはならないと読んでやっています。
これは、思いやりとか常識なんて立派なものじゃなく、単純に自己防衛本能の成せる技です。

私は基本的に自分は幸せだと思っています。
もちろん、辛い時期というのはありますし、悩みもあります。
それでも、やはり人生は生きる価値があると思っていますし、他の人々と同様、私自身も生きる価値があると思っています。
これから先の人生も、決して明るい予想ばかりではありませんが(どころか先のことなど考えたくないくらいのもんですがw)それでもなお、やはりこれからも人生は価値があり続けると思っており、やっぱり私は幸福だろうと思っているわけです。
こうなると、ほとんど根拠なんてありません(笑)

従って、如何に追いつめられた気分になったとしても、人生の価値をぶち壊す、幸せを投げ捨てるような結果になりかねない破滅的な行動はとれません。
勿体ないから。

だから、ぶち切れる前に一瞬立ち止まります。
何かやばいことや、追いつめられることがあった時、犬が降参のポーズを取るように、ギブアップすること、逃げること、謝ること、黙って受けとめることはきついものです。
何もかも放り出したくなることもしょっちゅうです。
それでも、投げやりになって、もういいや、と最終兵器を繰り出す前に、私は立ち止まります。
そして、その一瞬に、やっぱりここで投げ出すには、まだ私は人生が惜しいと判断、むぅ〜と眉間に皺を寄せつつ、それでも逃げたり謝ったりするわけです。

翻って、破壊的な行動にはしってしまった子供達のことを考えると、どちらなのだろう?と思うのです。
立ち止まること自体ができず、やっちゃってからしまったと思うのでしょうか?
それとも、立ち止まってはみたものの、人生を惜しいと思えなかったために、実行してしまうのでしょうか?
あるいは…立ち止まって考えてみるのだけれど、その行動の結果がどれ程重大で取り返しがつかないことなのかわからないのでしょうか?

そのどれだとしても、悲しい話だと思います。
自分の人生や未来に何ら価値も希望も見出せないとしたら、こんな辛いことはないでしょう。
立ち止まることさえ出来ない程、追いつめられている、あるいは、幼稚な育ち方しかできなかったとしたら、これも悲しいことです。
自分のやったことの重大さが実感できないとしたら、それは生命というものに対して畏敬の念を持つ、あるいは、ゲームのようにリセットはできない現実の重さを実感する体験を積んでくることができなかったということであり、それは逆に見れば、その子自身の命も大切にされてこなかった、大切だと伝えられてこなかったことなのでしょう。
これも切ない話です。

私自身は、決して実体験豊富な成長をした子供ではありませんでした。
むしろ、ヒマさえあれば本を読んでいるタイプで、外で子供達同士で自然の中で経験を積むことは少ない方でした。
今の時代だったら、間違いなくネットやゲームにはまっていたタイプだと思いますw
というか、今現在はまっているわけですが。
だから、少なくとも、そういった体験の不足が即問題行動に繋がるとは考えません。

親が私を完全に理解してくれた訳では勿論ありません。
それを恨めしく思った時期もありましたが、今では当然のことだと思っています。
親に神を要求した私があまりにも子供だっただけです。
では、彼らと私の道を分けたものは何なのでしょう?

私には答えはありません。
ただ、私には常に物語がありました。
それは本だったり、マンガだったり、ゲームだったり、ネットだったり、媒体は色々と変わっていますが、全て、私の脳内で物語は広がり、幸も不幸も隣り合わせに生まれては消えました。
私はこうなったらいいという願望、こうなったら怖いという妄想、こんな経験をしてみたいという空想、それらを頭の中で組み立てては壊し、また組み立てるというのを、日常的にやっています。
これから訪れる未来に備えた練習として、時に辛く苦しい現実からの細やかな避難として、物語は、私に色々な経験をさせてくれます。
それは実体験に代わることはできませんが、それでも、限られた時間しか持たない身を補ってくれました。

その空想の中で、私は自分が人を殺すと、その後がどれほど酷いことになるか知り、そして恐らく現実は空想より更に酷いだろうと感じ、実行を止めました。
空想の中で、私は幸福な日々を送る自分を想像し、その可能性を現実のものとするために、それをぶち壊すようなことはしませんでした。
どうしようもなく辛い時にも、いつかそれも終わり、明るい気分になる日を想像して、その瞬間を耐えました。

そういった空想力を養ってくれたものは、やはり幼い頃からの読書体験でした。
物語の主人公に自分を重ねて、私はまだ見ぬ広い世界を、深い感情を朧気に感じ取って、現実への備えとしてきました。

大抵の場合、現実はもっとシビアなわけですが、現実は思い通りにならないということすら、既に物語の主人公達が、物語の中で苦難に立て続けに見舞われることで、私に教えてくれていました。

今の子供達にとって、物語は身近ではないのでしょうか?
それとも、あまりにも情報が多くなりすぎて、想像力を発揮する余地がないのでしょうか?

もしも彼らが、誰かを傷つける前にちょっと立ち止まり、大人になり、楽しいことも苦しいことも、どちらも体験しながら人生を積み上げていく自分を想像できていたら。
もしかしたら、少し違った結果になっていたのではないかと思わずにいられないのです。
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by catsmoon | 2005-07-03 02:15 | 雑感
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