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20年前に何が途切れたのか
2007年 05月 29日 |
「考えろという教育」で書いた内容を、記事内からリンクしたブログや、そこから辿ったブログを読んでいるうちに、もう少し違う視点から見ることができないかと浮かんだので、続編です。

色々なブログを読んでいて気付いたのは、レベル低下が言われているのが、どうも記者だけじゃなさそうだってことです。
むしろ、日本全体の問題として、15〜20年前から高度な思考力とでも言えばいいのか、考える力、掘り下げる力が衰えてきている、そういう職業上の訓練の伝承が途切れているようだという意見を目にしました。

もし15〜20年前に何かの断絶があったとするならば、その原因はどこにあるのでしょう?



15〜20年前と言えば、丁度、私と同世代が社会に出た時期になります。
つまるところ、断絶を確定した世代というのが、私の世代と言えるでしょう。

何かあったっけ?と、う〜んと頭を捻って考えてみました。
色々浮かびましたが、どれも決定打にならず、諦めかけましたが、ふと浮かんだのが、親のことです。
私がそれまでの世代と何か違ってきたとすれば、それは親の影響から無縁ではありえないはずです。

そこで気付いたのが、私の親は、二人とも、終戦直後の時代に生まれているということです。
がらりと考え方が変わった時代、その激変の直後に生まれ、新しい世相を疑うことなく育った世代と言えるでしょう。

戦後、日本は、あの大戦の反動として、古いシステムや価値観を大量に捨て去り、主にアメリカなどの欧米から、新しい価値観を大量に持ち込みました。
丁稚奉公のような徒弟制度や、伝統継承の尊重、儒教的な考え方、身分に基づいた社会的責任といったものを、全て過去のものとして押しやってきたように思います。
ここに挙げたものを、私は、全て本からの知識としてしか知りません。
実感を伴った価値観ではなく、歴史の一頁としてしか感じていません。

それでも、私は小学生から、本を読んでいれば幸せという子供であり、その頃の図書館には、まだそういう古い考え方が息づく本が沢山ありましたから、違和感はそれ程感じません。
けれど、そういう本も、年々減っていったことでしょう。

逆に、平等という概念、封建制度の否定が、これでもかと持ち込まれ、もてはやされ、当然とされました。
私も、そういう時代に育っています。
性別であれ、年齢であれ、職業であれ、生まれであれ、とにかく、何かによって差をつける、上下をつけるのはよろしくないと徹底して植え付けられた世代です。
私自身、今もそう思っています。
しかし、逆に言えば、それは何かを誇ってはいけないという教育です。
テストだって、それで計られはするのに、成績優秀と、その結果として就く職業を誇ることは嫌われます。

私の祖父母の世代は、古い価値観に育ち、その転換を経験し、なんとか適応してきた世代です。
それぞれの良いところを知っている世代とも、それぞれの悪いところを知っている世代とも言えるかもしれません。

しかし、私の両親は、私と同じように古い価値観は過去のものとしてきた世代です。
当然、子供の教育において、古い価値観を伝えることはしませんでした。
ただし、親自身には、その親、つまり祖父母から得た無言の伝承として、まだ古い価値観が残っているように感じます。

けれども、その子供たちは、私のように、本以外から、生きたものとして古い価値観に触れる経験は、ほとんど祖父母との交流だけとなったはずです。
しかも、丁度、核家族が目立ち始めた時代でもあり、祖父母との交流さえ減っていったことでしょう。

そう考えてみると、ここに断絶が確定したと思われてなりません。

今、私の好きな時代小説などを読むと、封建時代の悪習と共に、高い身分に生まれたものが負うべき社会、国への責任や義務、あるいは、国の未来を考えるんだという気概、先祖から受け継いだものを次世代へと伝える使命、責任、そういうものが垣間見えます。

封建時代のように、生まれで人生が決められるべきとは、現代の私には考えられません。
しかしまた、小説の中で子供の頃から武士の子は…と言って育てられるように、社会全体に目を向け、深くものを考え、時に私欲を抑えるべしという精神性というものは、幼少の頃から教育しなければ、身に付くものではないのだろうとも思います。

私自身は、そういう精神性を獲得せずに育ちました。
正直に言って、自分に直接関係のない社会の未来を考えて行動しろと言われても、実感できませんし、何をどう行動すればいいのかもわかりません。
まして、そのために自己犠牲もやむなしと考えろと言われても、できる自信は全くありません。
職業に対する誇りも、とても個人的で小さなもので、社会全体に対する役割としての誇りはと言われると、ないとしか言いようがありません。

けれど、全員がそうなってしまった社会はどうなるでしょう?
政治家も、官僚も、裁判官も、医師も、教師も…皆、そういう人が大部分となってしまったら?
そして、植え込まれた平等にしろという要求、権利意識ばかりが大きな人が社会の大部分となってしまったら?

正しいもの、良いものをくれという人は多いのに、与える責任があると感じる人はいない国になるのではないでしょうか?

今、私自身が受け継がなかったものを、どう子供に伝えればいいのかと考えると、暗澹たる気分になります。
しかし、社会に良きものを与える責任を私は感じられないとしても、少なくとも子供に与える責任は、私にも感じられます。
ならば、古きを温ね、新しき未来へと繋げることを忘れずに、一つずつ、手繰り寄せ、受け渡す、その繰り返ししかないのでしょう。

そして、今、過去の遺産が失われたのだとしたら、新しい価値の創生が必要とされている時代でもあるのでしょう。
物事が必要あるところに生まれると考えれば、それはこれから生まれるのだと信じたいと思います。
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by catsmoon | 2007-05-29 23:09 | 雑感
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