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蔓延する閉塞感
2007年 06月 16日 |
子供や高齢者、あるいは女性に対する虐待事件が後を絶たない。
何れにも共通するのは、社会通念として、弱者として労るべきだと思われる立場の人が被害者となり、そのもっとも保護の責任を負うべき人が加害者となる点である。

本来、子供やお年寄り、女性を苛めるというのは、卑怯者の所業であり、絶対にやっちゃいけないことだと教育されるものだ。
にも関わらず、そういう人が被害者となる。
これは、逆に言えば、教育しなくては被害者となりやすいからこそ、やっちゃいけないという教育がされるということなのだろう。

普通の感覚であれば、子供や女性、高齢者が虐待されると聞けば、心が痛み、その残酷さに目を背けたくなるものだ。
なのに何故、最も彼等を守ろうとすべき人が加害者になるのだろう?



思うに、それは逃げ場がないからではないだろうか?

人が人に優しくするためには、その人自身がある程度安全を約束され、ゆとりがあり、幸福でなくてはならない。
誰だって、自分が辛くてたまらない時に、人に優しくするのは簡単ではない。

だが、守るべき弱者というのは、視点を変えれば、保護責任を負う人にとっては、非常に負担をかけられる相手とも言える。
それに持ちこたえられるだけの強さ、そして、偶には息抜きして、自分自身が健康でいられるゆとりがあれば、愛情が、その保護の責任の重さと、かかる負担を和らげてくれる。
しかし、それがなかったら、保護すべき相手は、一転して苦しい自分に更に苦痛を強いる悪魔のようにも見えるだろう。
けれど、今の日本では持ちこたえる強さがない、苦しくてたまらないと思っても、逃げ場がない。

昔を振り返れば、今より逃げ場が多かったとは思わない。
しかし、世の中、皆そうだという意識があった。
更に、親子代々、順番に保護される者から保護する者へ、そしてまた保護される者へという移り変わりがあり、それを目にして育ってきた。
縛りはきつかったと思うが、最初からそういうものだと思っていれば、仕方ないと諦めがつく。

だが、現代はそうではない。
若い時に、これでもかと自由を謳歌し、金も時間も何もかもを自分自身の幸福のために使い、それが許される時代。
その幸福で無責任な時期を過ぎてから、突然、子供や女性、老親を守れ、そのために、自分にかかる負担を受け止め、自由、時間、金の一部を使えと言われたら、それは耐え難い損失として受け止められる危険性がある。

弱者への思いやりや、家族への愛情は、天然自然のものだという幻想は通じない。
生存が厳しい野生の世界では、親が子を見捨てるなんて珍しい話ではないのだから。
人間とて、自分の生存や幸福が脅かされるとなったら、それでも自然に愛情が全てに打ち克つと言える人ばかりではない。

負担は強く感じられ、当たり前のことではなく、酷い犠牲を払わされていると感じるようになってしまった人が、ギブアップ出来るなら良い。
だが、未だ幻想が根強い社会では、ギブアップは出来ない仕組みになっている。

政府、自民党は、医療、介護、福祉を切り捨て、家で家族が面倒みろと言い続け、かつ着実にそういう政策を実行しつつある。
少子化だと騒ぎつつ、負担を一身に背負う母親を助けるシステムは、一向に整備がすすまないのも周知だ。
格差が広がり、経済的な自立が困難になったのに、やはり男は甲斐性だと言われ、結果、恋人を得ることの出来ない男性は、正常な手段では伴侶を得ることを諦めるしかなくなっていく。

どれ程追い詰められても、逃げ場はない。

そうなってしまった時に、どうしても持ちこたえられない人が一定の割合でいることは想像に難くない。
そして、耐えられないのに、逃げることもできないとなれば、結局、自分か、相手か、あるいは両方を殺すしかなくなってしまう。
自殺して逃げるか、相手を殺して逃げるか、心中して逃げるか。
最早、持ちこたえられなくなっているのだから、何故我慢しない!と責めても解決にはならない。
我慢できなかったから、我慢できる強さを持たなかったからの結果なのだから。

勿論、だからといって、他者を犠牲にする言い訳にはならないし、正当化することもできない。
しかし、犯罪を犯してしまった人を責めても、被害を食い止めることはできないだろう。

どうにもならないものは、どうにもならないのだ。
幻想を捨て、事実を認めた上で、そのどうにもならくなってしまった人達を、如何にして犯罪に至る水際で救うかを考えるべきだ。

だが、国は当てにならない。
昨今の政策は、およそ逆行することしかしていない。
マスコミは、犯人探し、犯人を袋叩きにすることにばかり熱心で、逃げ場を失った人を更に絶望させ、追い詰める役割しか果たさない。
事件の報道に接して、悲憤慷慨しつつ、国民は、やはり犯人を責めて事足れりとし、むしろ厳罰や自己責任を謳って、追い詰められる人を増やしていく。
そして、国民の意識に同調して、政府は、なお弱者切り捨てを進めていく。
経済回復ばかりを謳って選挙に打って出る政治家、それが何を意味するか考えない国民、考えさせる報道をしないマスコミ、全てが追い詰められた人を更に鞭打つ。

民主主義、資本主義は、人を幸福にしないのではないだろうか。
それは、結局のところ、十分な経済的な繁栄があれば、皆、幸福になれるが、そうでなくなった途端、弱い者は死ねと言うに等しい社会となる。
そして、未だ人類は、全ての人に等しく幸福が行き渡るだけのシステムを見つけ出していないし、そもそも行き渡るだけの資源がない。
どうしても、強者が弱者から奪うことによって、限られた一部だけが繁栄し、奪われる人々は、その何倍も存在して、彼等を支えなくてはいけなくなる。

これからの未来、人間は、本当に幸福になれるシステムを見つけ出せるのだろうか?
それとも、弱肉強食という、あまりにも厳しい真実は、なお人間を縛り続けるのだろうか?
皆が得ることを考える社会ではなく、皆が少しずつ我慢する社会へ。
資源が有限で、不足している以上、そのような思考の転換がなければ、難しいのではないかという気がしている。

そして、一度、豊かさを知ってしまった日本人が、我慢が常態という社会を、そういう社会を目指すことを容易く受け入れることはできないだろう。
むしろ、やらなければやられる、奪わなければ奪われる。
経済成長が頭打ちになった今の日本は、そういう不安と恐怖が蔓延し、一握りの強者となるために、あるいは奪われる弱者とならないために、限られた資本を巡って、国を挙げてバトルロイヤルを繰り広げているようだ。

それでもパンドラの箱には、まだ希望は残っているのだろうか?
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by catsmoon | 2007-06-16 03:56 | 雑感
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