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納得という幻想、報復という感情
2007年 09月 27日 |
納得:他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること。
報復:仕返しをすること。
(三省堂 大辞林より)
天災や犯罪や事故、あるいは病気、怪我…予想外の不運に見舞われることは、生きている限り、完全には避け得ない。
中には予想されるものもあるが、いつ、どのように、ということまで正確に予想されうる災難は滅多にない。
大体、そこまで予想できたら、難に遭わないように避けるだろう。

大抵の人は、最後は病気になって死ぬのだろうと思っているし、もしかしたら事故で死ぬ可能性もあるともわかっているだろう。
しかし、大抵の災難は、来るか来ないかわからないものだったり、来るとしても、ずっと先のことだと考えている。
明日にも来るだろうと思っていたら、毎日が不安でやっていけない。

不運にぶつかるその日はいつか必ず来るのであるが、それが今この瞬間となることは、大抵の場合、予想外で納得いかないものだ。



さて、その予想外の不運に見舞われた人は、自分が不運だと感じるだろうし、何故自分が悪い訳でもないのに、こんな酷い目に遭わなくてはならないのかと怒るだろう。
それも理解に易い感情だ。

例えば、私だって、車を運転する以上、どんなに気をつけている心算でも、思わぬところで事故を起こす可能性があることはわかっているし、当然、他の人だって、悪意がなくとも事故を起こす可能性があることもわかっている。
そして、誰かが起こした事故の被害者に、自分自身がなる可能性があることもわかっている。
わかっちゃいるが、しかし「多分大丈夫だろう」と思って生きている訳だ。
だから、わかっていても、その不運にぶち当たった場合はやはり予想外なことで、私は悪くないのにと思い、私をはねた車を運転していた人に対して怒りを感じるだろう。
相手に悪意がないことがわかっていたとしても、納得は出来ないのである。
できることは、受けた被害の程度、回復の可能性の程度に応じた時間が過ぎると、仕方ないと諦めることだ。
その際、相手が気持ちいい謝り方をしてくれたり、たっぷり慰謝料を払ってくれたりすれば、そして深刻な後遺症が残ったりしなければ、割に早く諦めるだろうし、相手の態度が悪かったり、十分な補償がなかったり、酷い後遺症が残ったりすれば、かなり長いこと、下手すると一生許せないだろうし、諦めもつかないだろう。

このような諦めの境地に至るまでの時間を左右する要素は色々あると思うが、その中でも、不運の原因が何であったかは、非常に大きな要素だろう。
例えば、私自身だったら。
原因が天災であった場合、それも広範なものであればある程、諦めは早いと思う。
理由は簡単で、自分だけじゃないから。
そのような天災の場合、見回せば、周りの人は皆被災者であるから、何故自分だけという感情は湧きにくい。
その分、諦めに至るのも早いと思う。
なんで地震が!と怒ってたって、今更潰れた家は戻らないし、それより周囲と協力して、これからをいかに生き延びるかを考える方に必死になるだろう。

逆に、原因が限定的で、かつ一人の人間の意図的な行動によるもので、しかも、世間を見回しても稀な被害であった場合は、諦めるのは非常に困難だと思う。

地震に比べると、同じ天災でも落雷による火事は諦めが難しいだろうし、それが放火だったら、もっと諦めはつかないだろう。
病気だって、年取ってから癌になるのと、若いうちに何やら聞いたこともない難病になって余命宣告を受けるのでは、後者の方が圧倒的に諦めにくいと思う。

ただ言えることは、如何なる原因であれ、自分に非がない、あったとしても非常に小さい不運について、「これこれの理由、事情のせいであるから、もっともなことであった」などと納得することは、絶対に出来ないということだ。
納得できないまま、必要なだけの時間と共に諦めてか、あるいは諦めきれない気分を抱えてか、生きていく。

だが、そこに原因となる人がいたり、あるいは、助けようと思えば助けられる(ように見える、そう思いこんでいる場合も含む)人がいた場合、諦める代わりに、その人達に対して怒りをぶつけると同時に、人は納得を求めるように思う。

曰く、何故そんなことをしたのか、何故間に合わなかったのか、何故十分な対策をとっておかなかったのか、等々。

しかし、繰り返すが、どう説明されようと、その不運ももっともだったと納得など出来はしない。
相手の責任ではなかったということは納得できる場合もあるかもしれないが、といって、私が悪い訳でもないのに何故?という問いに、納得を生む答えなど存在しない。
例えば、そこに偶々居たのが不運だったからと言われて、それならもっともな巡り合わせだったと納得などできようか。
例えば、貴方のこの対応が不十分だったから、あるいは、この行動が拙かったからと言われても、ならこの被害ももっともだと納得などできようか。
例えば、相手も追い詰められていて、他にどうしようもなかったのだと言われても、他の誰でもない自分自身が被害者となったことに納得などできようか。

答えは否だ。
諦めることはできるかもしれないが、納得などできない。

だが、人々は幻想の納得を求めて、加害者を、あるいはその周辺の人を、あるいは助けられそうに見えた人を、あるいは自分を追い詰めた人を、ありとあらゆる人を責める。
責めて、報復がなされなければ納得できないと叫ぶ。
しかし、仮にその感情のままに、呪った相手を全て殺せたとしても、納得は生まれない。
報復は報復であって、被害の回復ではないから。
相手を殺したとて、自分が受けた被害はもっともだったなどとは思えないから。

そういう意味で考えるならば、報復感情に囚われて暮らすことは、何よりも被害を受けた人自身にとって不幸だと思う。
報復とは、過去を見て生きることだ。
なんら得るもののない、幻の納得を求めて彷徨うことに他ならない。
そして、全てが終わった時、それでも納得など出来なかったと愕然とするのか、別の報復すべき相手を探すのか、あるいは、自分が望んだ程の報復ではなかったからだと心の内に呪い続けながら生きていくのか、いずれにせよ、幸福を目指して生きていけるようになるまでの道程は遠いと思う。

といっても。
最初に書いたように、私自身が被害者なら相手を恨むし、報復を願う。
それが自分の幸福に欠片も繋がらないことはわかっていても、やはり呪う。
それもまた人というものだと思うし、そのような人を気の毒だとは思うが、誤っているとは思わない。
その結果として、本来、報復を受けるべきでない人まで報復を受けるとしたら、なお気の毒だと思うし、見ようによっては被害が拡大したということを、それを防げなかった社会を深く悲しむ。

しかし、少なくとも、私自身や家族などが被害に遭う、私の生活、人生を大きく狂わせる不運でなければ、私は報復を願わない。
あるいは、むしろ、他人の不運の場合、被害者を気の毒に思い、誰かを非難し、報復しろと叫ぶことは、その報復がなされた時に、すっきりできるかもしれない。
何と言っても、その場合、私は何一つ失っていないから。
全てが終わった時、自分の手を見つめて、やはりそこに失ったものは戻っていなかったという苦痛は感じないのだから。
だが、だからこそ、私は報復を願わない。
自分が何一つ被害を被っておらず、何の痛手も受けておらず、それなのに、一体何をもって、報復として他者を不幸にせよと叫ぶ権利があろう。

人は感情の動物だと言う。
だが、同時に理性も持つ動物だ。

押し流されても仕方ない程の大きな激情に見舞われたのでなければ、私は理性にこそ、感情の手綱をとらせたい。
感情に、理性を蹂躙させたくはない。
誰か悪い奴がいるんだろうから、そいつを吊せと叫ぶことは、人間らしい感情の発露かもしれないが、私自身が痛手を受け、理性が制御しきれない程の激情、深い悲しみ、怒りと戦っている場合以外は、私にとっては適切な行動とは思えない。
理由は単純だ。
感情のままに叫ぶことは人間らしいのかもしれないが、感情は感情として存在を認めつつ、行動を選択する時には、理性に制御させる方が、大抵の場合、人は幸福になりやすいと思うからだ。
そして、より幸福になりやすい道があるなら、それを選ぶ方が賢いと思う。

私自身は、弱く、脆く、いつ被害者となるか、あるいは加害者となるか、あるいは無実の罪を着せられるか、全てわからない。
可能性の大小はあるとしても、どんなに小さな可能性でも、それにぶち当たってしまう可能性が0でない以上、結局、同じことだ。
9割当たる籤に外れることもあれば、1割しか当たらない籤に当たることもあるのだから。

どの立場になる可能性も否定できない以上、その時、その場になるまでは、せめて幻想の納得を求めずにいたいと思う。
誰にどう報復しようと、何故世の中にはこんな不条理が存在するのかという問いに対する納得など出来はしないという理性の声に耳を傾けることを忘れたくないと思う。
何故なら、もし私が無実の罪を着せられた時、あるいは自分のしたこと以上の責を問われた時、誰一人として信じてくれない時、全ての人から石持て報復を叫ばれるのは、あまりに辛すぎると思うから。
逆に、私が被害を受けた時、世界中の人が報復を叫んでくれたとしても、報復が実際になされたとしても、私が受けた痛みは、やはり痛みとしてあり続けると思うから。

私は、被害者にでもなったような顔で報復を叫ぶのではなく、ただひっそりと悲しみ、祈りたい。
そして、悲劇の繰り返しを防ぐ方法はないのかと、静かに考えたい。
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by catsmoon | 2007-09-27 01:31 | 雑感
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