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事故の難しさ
2008年 01月 09日 |
福岡の三児死亡事故について、地裁の判決が出て話題になっています。
<福岡3児死亡事故>今林被告に懲役7年6月 地裁判決 by エキサイトニュース
今回の判決では、危険運転致死傷罪が適用されず、業務上過失致死として最も重い判決が出たことが、主に注目されているポイントでしょう。

今回の事故に関しては、飲酒していたことと、それを隠すことを優先して被害者を助けようとしなかったことが最も批判を浴びている点であり、私も、これは非難を浴びて当然と考えます。



危険運転致死傷罪の成立する(しない)要素についての考察や、あるいは法そのものの不備については、思うところもありますが、多くのブログで言及されているので、ここでは触れません。
私が、この事故と判決について、一番強く感じた点は、実はそこにはないからです。

今回は、偶々、飲酒運転と被害者を助けなかったという二つの故意の行動が基本にありますが、これは事故というものの本質を考える時、むしろ付随要素にすぎず、主題となる部分ではないと思います。

要するに、事故とは意図して引き起こした結果ではないものを言うからです。
わざとやったんなら、それは故意の傷害、傷害致死、殺人になり、事故とは言いません。

ですから、この事故には、単純に事故としてだけ見ることが出来ないポイントが数多くありますが、一般的な事故全般について考えたくなったのです。

裁判、あるいは社会的な問題解決として考えた場合、故意犯より事故の方が難しいと感じられるのは、被害感情と加害者側の意識のズレが非常に大きいと思われる点です。

故意の犯罪であれば、犯人は意図して、そのような結果を引き起こしたのであり、どのように処罰されようと、ある意味自業自得です。
しかし、事故の場合、加害者はそれを意図した訳ではありません。
むしろ、事故を起こすことは、様々な賠償責任が生じたり、仕事を辞めざるを得なくなったり、場合によっては服役の可能性もあったりと、要するに人生が激変する、それも悪い方に激変するのですから、望む人などいましょうか。

しかしながら、如何に嫌だと思っていても、気をつけていても、思わぬ齟齬で事故を起こす可能性は誰にでもあります。
今回の事件では、飲酒が基礎にありますから、事故は必然的な結果と言うことも可能でしょうが、例えば飛び出した猫に驚いて思わずハンドルを切ったら対向車にぶつかったというような事故のケースもある訳です。
先日の青森でのバス転落事故などは、その典型で、雪で前が見えなくなってブレーキを踏んだらスリップしたというような場合、同じ状況になっても、私は絶対に事故を起こさないと断言できる人は多くはないでしょう。

ところが、ここが難しいのですが、被害者や被害者遺族の感情としてはどうでしょうか。
原因が、猫の飛び出しだろうが、雪だろうが、はたまた飲酒だろうが、結果として事故が起こり、子供が三人亡くなったとしたら、果たして遺族の感情にどれ程の差が生じるでしょう。
私が親だったら、原因が何であれ、だったら仕方ないとは到底思えません。
大事な人を失うという結果に関して言えば、遺族にとっては全て同じ、どころか故意の殺人であってさえ、同じと言うことさえ可能です。

被害者や遺族にしてみれば、殺人であれ、事故であれ、はたまた天災であってさえ、つまるところ望まない死であり、喪失であり、どれであっても仕方ないと諦めがつくものではないでしょう。

ところが、加害者にとってみれば、故意の殺人か不慮の事故かは、天と地の差があると考えます。
雪による転落事故など、見ようによっては、加害者もまた望まぬ事故で人生を狂わせた被害者と見ることさえ可能です。

このような事故の場合の、被害者の受けた痛手と、加害者の責任に関するズレは、非常に大きいと思います。
これは車の事故に限りません。
ありとあらゆる事故に言えることです。

事故は、加害者が決して望んだ訳でもないし、それによって人生を大きく狂わされることになり、何一つ、いいことなどありません。
中には状況的に、一般的な能力の持ち主であれば不可避と思われる事故もあり、そのような望まぬ不運に見舞われての事故という場合、私が加害者だったら、何故自分がそんな事故を起こす羽目になったのか、運命を呪うと思います。
それなのに、社会的には自分が加害者であり、非難を浴びねばなりません。

事故を起こす可能性のあることをしなければよかったのだと考えるむきもあるかもしれませんが、そう言い出すと、車はもちろん、自転車の運転さえできませんし、職業ドライバーなど以ての外となります。
医療事故を防ぐには医者がいなければいい、冤罪を防ぐには警察、検察がなければいいということになりますが、現実、そうはいきません。
事故の可能性は常にあるのだけれど、やはりやるしかないのです。

事故の場合、結果論での非難がよく見られます。
同じことをしたのに、結果が悪ければ非難囂々、そうでなければ問題視されない。
加害者にしてみれば、納得し難いところでしょうが、被害者にしてみれば、結果が許し難いものである以上、加害者が何をしていようと、あるいはしていなかろうと、全て非難すべきことにしか見えないでしょう。

被害感情の救済を主軸におく限り、どのような事情であれ、結果が重大であれば、加害者は、それが如何なる不運の結果であっても、重罪を科せられ、社会からつるし上げられることを、それが世の中と諦めるしかなくなります。

一方で、あくまで加害者のしたこと、あるいは出来たこと、出来なかったことから考えて罪を計るとすれば、被害者や遺族の納得は得られないでしょう。

近頃の報道を見ていると、被害感情が重視され、重い刑をもって対処しろという意見が多いように感じますが、事故に関して、私は本当にそれでいいのだろうかと思います。

遺族が加害者を、故意であれ、過失であれ、許す必要はないと考えます。
許せるかどうかは感情であり、コントロールは不能です。
私が事故であろうと、故意であろうと、なんにしろ子供を殺されたら、それが一人であっても、あるいは死亡ではなく重度の障害であっても、到底、加害者を許せる自信はありませんし、死刑になっても、なお気は晴れないと思うからです。

しかし、一方で、遺族でない、赤の他人、マスコミや大衆が、感情的になって、加害者を吊せと叫ぶのはどうかと思います。
何故なら、私なら、自分が被害者になる可能性と同様、自分が加害者になる可能性も同じく想像するからです。

今回の事故に関しては、そもそも飲酒運転という非常に悪質な行為があるため、多くの人が感情的になっているようですが、私はふと思うのです。
これが飲酒はしておらず、スピードも出しておらず、単なるハンドル操作の誤りや猫に驚いたなどの理由で事故が起こり、しかし結果は同じだった場合、果たして世論はどう評価したのだろうかと。

少なくとも、結果の重大さを考えて刑を重くすべきと言う時は、それが望まぬ、しかし避け得ない不運に見舞われた結果としてのケースでの刑も重くしてしまう可能性も、同時に考慮すべきと思うのです。
そして、事件、事故について考える時、自分が被害者になる可能性と同時に、加害者になる可能性についても一考してみることが大事ではないでしょうか。
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by catsmoon | 2008-01-09 10:46 | 雑感
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